■元政上人(1623-68)

瑞光寺の開祖は元政上人です。
江戸時代初期の日蓮宗を代表する高僧といわれ、京都深草に住したところから、深草(草山)の元政、艸(草)山和尚とよばれています。

日蓮宗の宗学者、教育者として大きな功績を遺していますが、当代一流の詩人・文人としても著名です。
元政はこの草山で自ら信行に励むと共に、著作詩文を多くものにし、著名な文人墨客と交遊し、宗内外の碩学と道交を結びました。

三六歳の時父を送り、翌年母と共に父の遺骨を奉じて身延に詣で池上を訪れました。この旅行記が『身延道の記』で元和上皇から嘉賞せられた名文の書です。

寛文元年(1661)称心庵の仏堂が完成し、中正日護作の釈尊像を安置して瑞光寺と改めました。

  • 生い立ち

元和九年二月、元毛利輝元の家臣石井元好の五男として生れ、幼名を源八郎といいいます。

長兄元秀は彦根の城主井伊直孝に仕え、長姉春光院は直孝の側室でした。元政は一三歳でこの井伊直孝に仕え近侍をつとめます。

生来読書を好み、文を習い、和漢の学に天稟の才を発揮して、その聡明さを衆人から称えられています。

十九歳で主君に従い江戸に出たが病を得て京に帰り、母と共に泉洲和気の妙泉寺に詣で、祖師の像を拝して三願を立てました。

■出家せん。
■父母に孝養をつくさん。
■天台三大部を読了せん。

この年、泉涌寺の如周律師の法華経講義を聴聞し、出家の決意を固めました。その後数年井伊家に仕えましたが、二六歳の時致仕して、妙顕寺一四世僧那日豊の門に投じて髪を剃ったそうです。

明歴元年(1655)三三歳の時、師日豊が池上本門寺に晋山し、これを機に洛南深草に称心庵を結んで隠棲しました。

しかし元政を慕って集う求道者は続き、深草に唱題読経の声があふれました。

そこで元政上人は門下の子弟のために『草山要路』一巻を著して、行学の指針、出世の要旨を述べ、草山の求道者の道標としました。
ここに草山派とよばれる独特な一門の流れが生じ、後に「草山教学」と呼称される教風が起こったのである。
同年、瑞光寺のそばに養寿庵を設け、母をここに住まわして孝養を尽した。

元政上人の孝心は世上有名なもので、古人の句にも「元政の母のあんまやきりぎりす」とうたわれるほどです。その母妙種は寛文七年八七歳の長命をもち逝去しました。
父母共に八七歳の長寿で、孝養を尽くし、元政上人の青年時の三願はすべて成就しています。

元政上人は生涯多病であったようで、深草にあっても度々療養に出かけていたようです。。

母を送った年また病を発し翌寛文八年正月末、自ら寿命を悟って帰山、一八日世寿四六歳をもって遷化しました。

遺命により称心庵の南方に葬り竹三竿をもって墓標としました。